綾人は昨夜のことを瑛介に話した。 瑛介はそれを聞いて沈黙した。 彼の沈黙する様子を見て、綾人は続けて言った。 「もしかして彼女は来たが、ちょうどバーの外で私たちと奈々を見たから、出てこなかったのではないか」 その一言が瑛介の心を衝いた。 彼の細長い目を微か細くし、しばらくして否定した。 「ありえない」 綾人は眉を上げた。 「お?」 「彼女は奈々に恨みがない。なぜ奈々を見て出てこない?」そう言って瑛介は自嘲的に笑った。「彼女は単に俺に会いたくない、俺のことなんて気にしたくないのだ」 綾人は言葉を失い、薄い唇を噛みながら何か考えているようだ。 二人はまた長い間沈黙し、瑛介の携帯が鳴り響いた。奈々からの電話だと綾人はそばで見た。 瑛介が電話に出る前に、綾人はため息をつきながら一言を聞いた。 「自分が本当に欲しいものは何かを知らないのか?」 それを聞いて、瑛介は足を止めて振り返った。その時、綾人はもうドアを開いて出て行っており、瑛介だけが携帯を持ってその場に立ってぼんやりしていた。 - 「本当に決めたの?」 昨日はまだ弥生を心配していた由奈は、今日は新しい良い知らせを耳にするとは思わなかった。 「うん」弥生は微笑を浮かべて頷いた。 今彼女は、未来を見えたように感じた。 やはり、人は決断を下すことで、迷わなくなるものだ。 以前はどうすればよいか分からなくて、自分の未来が何も見えなかった。 しかし、彼女が本当に決断を下したとき、多くのことが突然明らかになり、次に何をすべきか、将来何をすべきか、彼女はしっかりと考えることができた。 なぜなら、彼女はその目標に向かって努力しているからだ。 「よかった」由奈はにっこりと彼女の手を握った。 「本当に嬉しく思うわ。そうだ、子供の名前は考えたの?」 それを聞いて、弥生は唇がひきつけを起こした。 「今はまだ小さいのに、そんなに遠くまで考えるの」 「遠くないよ、名前を考えて、将来生まれたらそのまま使えるから。それにね、子供を育てるなら、家を買わない?」 「うん、離婚したら新しい家を購入するつもりよ。でも……あくまでも今の考えで、家族に相談しなければならないわ。彼らは海外で働いているから、私とこの子を受け入れてくれるなら、家族
楽しい? この言い方に弥生は鼻に皺を寄せた。 「そうそうそう」由奈は顎を支えて、非常に興奮して言った。「小さな赤ちゃんはとても面白いの、知っている?例えば女の子だったら、毎日服装を替えておしゃれにすることができて、まるで生きた衣装スタンドのようなものよ。」 「……」 由奈が言ったことが分からない弥生は、目の前の由奈を複雑な表情で見つめていた。彼女がこのような考え方をしかった。 「そうだ、その時私をこの子に紹介してね」 由奈はワクワクになって言った。 「もし忙しいなら、あなたのところに引っ越して一緒に住むわ。言っておくけど、子供と遊びたいから一緒に住みたいわけじゃないよ」 弥生は突然、由奈が自分に子供を残してほしい理由がわかったような気がした。 「そうだ」由奈はいきなり真剣な顔で言った。 「奈々が昨日あなたを見に来たの?」 「うん」 「もう最悪。何を言ったの?」 弥生は昨日起こったことを全て彼女に話した。 話を聞いて、由奈は表情を隠せず、また色々な表情をた。 「参ったわ。恥知らないの?お金を渡すなんて、何様のつもり?宮崎さんとは恋人同士なの?何その奥様のふりは?」 彼女が愚痴をこぼして、弥生は阻止する気もない。由奈はそんな性分で、話させないものなら、窒息しそうになる。 由奈が言い終わった後、弥生は彼女にティッシュを渡し、「今回に限ったことなのよ。これからは彼女のことを言わないで」と勧めた。 「何?」由奈は目を丸くした。 「あの女があんな風にあなたを扱ったのに、庇うの?」 「由奈、彼女は以前私を助けてくれたことあるの」 「いつ?」由奈は分からないようだ。「何それ、知らないわ」 弥生は目を伏せた。 「それはずっと昔のことだよ」 当時、霧島家が倒産したばかりで、弥生のカードがすべて凍結され、財布にはただ数万円しか残っていなかった。 彼女は何が起こったのか分からず、父の電話も通じず、彼女は仕方なく急いで家に帰った。 帰ったときには、自宅に押し掛けてきた人々が作業しており、赤い漆を撒いたり、家中をカラッポにしようとしていた。 弥生の父が人々を阻止するうちに、強く押されて、足を骨折した。彼女は怒って反抗して、警察に通報しようとしたが、携帯が人に叩き落とされた。
弥生は携帯電話を握りしめて、どうしても理解できない。 「なぜ私を助けるの?」 彼女と奈々との関係は、特に良いとは言えない。彼らは瑛介の友達を介して知り合い、二人の関係は普段からあまり良くない。 その後、瑛介の奈々に対する感情を知った後、弥生は彼女に対する態度がますます冷めくなり、できるだけ近づかないようにしていた。 なにしろ、自分がそんなに優しい人間とは思っていない。 彼女を憎むわけではないが、好きなわけでもない。しかし、弥生は決して奈々と友達にならない。 しかし、奈々が彼女を助けるとは思っわなかった。 奈々は彼女の質問を聞いて、そっと笑った。 「弥生、あなたは瑛介の友達だから、瑛介の友達なら私の友達なのよ。もちろん助けるから、感謝しなくてもいい。今回のことも、誰にも話さないでほしいの。瑛介があなたを助けたと思えばいいわ」 ここまで聞いて、まだ何かわからないのか? 彼女は瑛介のために自分を助けたのだ。 弥生は少し青ざめた唇を開き、何か言おうとしたが、やめた。 その時、洋平は突然激しく咳き込み、そばの使用人はすぐに大声で叫んだ。「旦那様、大丈夫ですか?お嬢様、すぐに病院へ行かないと」 奈々の心配そうな声も携帯電話から聞こえた。 「おじさんは大丈夫?弥生、また後で話しましょう。おじさんを病院に連れて行って。運転手はもうすぐ到着するから」 弥生は冷や汗をかいて、顔色が青ざめた父を一瞥して、横に垂れた手を思わず拳に握った。 結局また力なく拳を緩めて、運命だと諦めたように見えた。 彼女は向こうの奈々に言った。 「ありがとう」 「だからいいよ、さっき言ったでしょう?瑛介があなたを助けたと思えばいいの。早くおじさんを世話しなさい」 奈々はすぐに電話を切った。 弥生は携帯をポケットにしまい、父のそばに駆け寄って支えた。 「父さん、大丈夫?もう少し我慢して、車はすぐに来るから」 言葉が終わると、外から運転手が入ってきた。そして皆で洋平を車に乗せた。 病院に行く途中、洋平は隣にいる娘を見て、慎重に尋ねた。 「もちこ、さっきの電話は誰からのか?」 もちことは洋平が弥生を呼ぶ愛称だ。彼女は幼い頃から、父一人で育てた。 弥生は幼い頃とても愛らしかった。白いドレスを着ていて、まるでもちも
借りは、その時作ったものだ。 そして、弥生も後に様々な場所で人に助けを求める中で、奈々からのあの電話がどれほど大事なのかを実感した。 霧島家の全ての財産がなくなり、一つの不動産だけが残された。 その後、再び事業を立て直す際、弥生はその不動産を売り払って、父親に再起の資金にすべきだと考えたが、洋平は認めなかった。彼は暗い顔つきで次のように言った。 「家はそのまま抵当に入れてくれ。私は以前にも裸一貫から身を起こしたから、今後も必ず成功できる。家をその人たちに抵当に入れて、将来奈々をご馳走し、何か手伝うことをして、できるだけ早く恩返しを済ませなさい」 「父さん……」 恩返しは、そう簡単にはできない。 洋平は娘の頭を撫でて、暖かい笑みを浮かべた。 「父さんはたとえ何も持っていなくても、もちこにライバルの前で頭を下げることはさせない。安心しなさい。父さんは必ず再び成功する。父さんにはまだ友達がいるから、あの人たちはきっと俺たちを助けてくれるんだ。もう彼に話したよ」 違う。父は嘘をついていた。 父さんが電話で断られたのを聞いたんだ。彼が言ったその友達は、以前多くの恩恵を受けていたのだが、いざとなると、彼は尻込みし、裏切り者になった。 洋平がそう言うのは、娘の心配をかけたくないためであり、ましてや奈々にあまりにも多くの借りを作りたくなかったからだ。 弥生は長い間沈黙し、その後顔を上げて、可哀相で弱々しい声で言った。 「父さん、宮崎おじさんのところに行ってみないか……」 彼女の言葉が終わると、洋平はすぐに顔を強張らせ、「だめだ!」と言い切った。 「宮崎はまだこのことを知らない。もし彼が知っていたら、彼に助けを求めなくても、助けてくれる。しかしもちこ、一度彼の助けを受けたら、これからお前はどうする?俺が育てた君は世界で最も素晴らしい娘なんだ。お前を誰の前でも頭を下げることはさせたくない。安心して、お金がなくても、なんとかする。時間がかかるかもしれないが、もちこ、信じてその日を待ってほしい」 あの日、弥生は部屋に戻ってから激しく泣いて、目が腫れ上がった。 泣き終わった後、彼女は家を抵当に入れず、売り払って金に換えた。すべてを洋平の銀行カードに振り込んだ。 銀行から出てきた時、弥生は携帯を取り出し、彼女と瑛介の二人の
時間は本当に早いものだ。 仕事が忙しいため、小百合は彼女と瑛介が土曜日にだけ見舞いに来てほしいと言っていた。他の時間に来たら、彼女は怒ってしまう。 この2年間、弥生は毎週土曜日に瑛介と一緒に訪ねていた。 彼は昨夜、酔っ払って奈々と一緒に行ってしまった。多分今は…… ちょうどその時、運転手が尋ねた。「ご主人様に電話をかけますか?」 それを聞いて、弥生は気を引き締めて言った。「いいえ、彼は忙しいから」 「……」 「今日は一人で行くわ」 運転手は黙って頷き、車を運転した。 宮崎家に長くいるから、彼も最近雰囲気がおかしいことに気づいており、うわさ話を耳にしたこともある。今弥生を見て、彼はやはりかわいそうに思った。 でも彼はただの運転手だ。このようなことについて彼が心配する立場ではない。 - 南市で最高のリハビリテーション施設で 弥生が到着した途端、介護スタッフが彼女に笑顔で挨拶し、 「宮崎さん、ようこそ。大奥様はちょうどあなたのことを言っていましたよ。今スタッフが彼女を階下に連れて散歩しようとしたんですが、したくないとおっしゃっていました。あなたが来たら待たせてしまうから、部屋に戻って待っていてほしいと言っていましたよ」 それを聞いて、弥生は思わず笑みを浮かべて言った。「少し待ってもかまいませんよ」 「あなたたちは週に一回しか来ないので、宮大奥様はこの時間をとても大切に思っています。10分でも長くいられると彼女が嬉しく思うはずです」と介護スタッフは言った。 弥生はそれを聞いて、一瞬呆然とした。すると何かを鋭く感じ取った。 「最近気分いかがですか?大丈夫ですか?」 「問題ないようです。大きな変化はありません」 弥生はまた尋ねた。 「食事と休みの方は?」 「特に変わったとは感じていません」 「ありがとうございます」弥生は頷いて、 「それでも、やはりおばあさん最近の睡眠時間と食事の量を詳しく調べてください。お願いします」 看護師は頷いた。 「はい、すぐに調べます」 「ありがとうございます」 改めて感謝の意を表した後、弥生は小百合の部屋に向かった。 小百合は部屋に戻って、介添いの助けによって、ベッドに座って休憩しており、孫嫁と孫の訪れを待っていた。 小百
瑛介のことを思い出すと、昨夜バーの外で見た光景がまた頭に浮かんできた。 彼はどこにいるのだろう? もちろん、奈々に連れて行かれたに違いない。 昨夜何があったのか、彼が何をしていたのか、そして今まだ姿を現さない原因は、弥生がもうはっきり分かっている。 彼女は腹が立ったが、小百合の前でその怒りを表に出してはいけない。だから彼女は瑛介にばれないような言い訳を作った。 「昨夜遅くまで起きていたので、今日は起きられないんです」 そう言ってから、自分がある程度事実を言っていることに弥生は気づいた。彼は確かに夜遅くまで起きていた。しかし、夜遅くに何をしていたのか他人にはわからない。 小百合はそれを聞いて、すぐがっかりした表情を見せた。「こんな年なのにまだ夜遅くまで起きているとは」 弥生は微笑んで、何も言わなかった。 小百合は彼女の気性のいい様子を見て、ため息をついた。 「あなただけが彼の気性を我慢できるわ」 「そんなことないわ」 弥生は低い声で言った。 弥生はこの話題を続けたくないので、小百合に車椅子で、ガーデンに連れて行こうと提案した。小百合は同意した。 介護スタッフが車椅子を押し寄せて、小百合を車椅子に乗せた。 小百合の足に大した問題はないが、長時間歩くことはできない。部屋の中で数歩だけなら歩けるが、外に出ると無理だ。 彼女が車椅子に乗った後、弥生はいつも通り戸棚を開けて、中から厚い肩掛けと厚い毛布を取り出して、小百合に被せると、彼女を連れて外へ出た。 小百合は満足そうに毛布を引き締めながら言った。「この肩掛けは本当に気持ちいいわ。若い頃は、こんな生地が重くて不便だと思っていたのに。今は好きになってきたわ。残念だけど、もう年をとったね」 彼女の言葉には少しの無念が感じられ、弥生が少し動揺し、すぐに慰めた。 「今のおばあさんのほうがこの生地にもっと似合うと思うわ。このオーダーメイドのドレスと合わせて、本当に美しい。私がいつも羨ましいです」 これは本当の話だ。 宮崎家の女性は皆とても綺麗だ。 小百合も、彼女の義理の母も。 それで、宮崎家の男は皆女に対して目が高い。 ここまで話すと、弥生は思わず言った。 「ねえ、おばあさん知ってる?幼い時宴会に参加した時、おばあさんと義母さんが一緒に
この人は背が高くて痩せている、顔立ちは整っているが、目は冷たい。 二人の目が会った時、弥生は足を止めた。 「瑛介?」 ここで瑛介を見て、小百合は明らかに驚いていた。 「おばあちゃん」瑛介は小百合に低い声で呼びかけた。 彼の声は少しかすれて、沈うつなセクシーさがあった。 弥生は軽く嘲笑って、聞こえなかったふりをした。 しかし瑛介はそれに気づいたようで、彼女をじっと見つめた。 「どうしたの?弥生はあなたが夜遅くまで起きていて朝起きられないと言ってたわ。今日は来ないと思っていたのに」 瑛介は弥生が自分のためにそんな言い訳を作ったとは思わなかった。 彼は薄い唇をすぼめて、小百合に媚びた声で言った。 「夜遅くまで起きていても、夜更かししても、必ずおばあちゃんを見に来なければならないよ」 「口がうまいわね」 小百合は意地悪そうに言ったが、喜んでいるようで笑みは抑えきれない。 その後瑛介は弥生に近寄って言った。「私が押すから」 近づいても、弥生は彼から酒の匂いを感じなかった。むしろ、とても爽やかな石鹸の香りがした。 さらに、彼の服も昨夜のものではなく、黒いシャツは綺麗に整えられていた。 弥生はこれが誰の作品だとすぐにわかった。 多分、あの人と一夜を共に過ごした後、起きたら相手が彼の服をアイロンをかけたのだろう? 彼女が考えているうちに、瑛介はすでに近寄ってきた。 彼の手が車椅子に触れる寸前、弥生は手を素早く引っ込めて、瑛介から大きく離れた。 まるで瑛介が何か凶暴な獣であるかのようだった。 瑛介の自然な動作は、彼女が避けた動作によって急に固まった。 数秒後、彼の清潔な顔が暗くなり、全身から冷たい雰囲気を醸し出した。 もともと、彼は綾人の言ったことで、心を柔らかくしていた。 瑛介は心の中で嘲笑った。 どうやら、彼は考えすぎだったらしい。 「どうしたの?」 小百合は瑛介が立ち止まってからしばらく動かないので、聞いた。 それを聞いて、瑛介は気を取り直した。薄い唇が少し上がった。 「大丈夫だよ、おばあちゃん。行きましょう」 その後、瑛介が小百合を車椅子で押して庭の方に向かった。弥生は隣でついていた。 以前、小百合と一緒に庭に来た時、瑛介が車椅子を押して、弥生が彼の
このメッセージを見て、弥生は無意識に瑛介の方へ視線を向けて、彼の真っ黒で深い瞳にちょうど合った。 彼はじっと彼女を見つめていた。 弥生は彼と向き合って一瞬、唇を噛み、振り向いて無視した。 携帯が再び震えて、弥生は取り上げて一瞥した。 「こっちに来い」 嫌だ、行きたくない。 「祖母の手術が終わったら、どうでもいいから、今だけ協力して。俺たちは取引関係だと言っただろう?」 それを見て、弥生はようやく気づいた。 そうだ、もともと取引関係だった。 互いに望んだことであり、彼女は今なぜ片意地を通すのだろうか? そう考えると、弥生は深く息を吸って、ゆっくりと彼のところへ近づいた。 彼女はちゃんと心構えをしていたが、瑛介に近寄ること自体が依然として困難だった。 彼女がついに彼のそばに来た時、瑛介の顔色は闇のように暗くなった。 彼は目の前の女を見て、言葉を失った。 瑛介は突然手を伸ばして彼女をつかんだ。 弥生がびっくりして、無意識に避けようとしたが、彼女のスピードは瑛介の手に及ばず、捕まった。彼は彼女の手を自分の腕に引き寄せて、声を低くして言った。「腕を掴んで」 弥生が彼を見て、彼が本当におばあさんの前でそう言ったとは思わなかった。 彼女は再び拒否することができず、結局おばあさんのほうが大事だった。 そこで弥生は、不本意ながらも彼の腕を掴んだ。 瑛介はようやく安心して、仕方なく言った。 「しっかり掴んで、ついてきて」 弥生は「わかった」といらだちながら答えた。 ずっと静かでいる小百合がついに堪え切れずに笑みを浮かべた。 「仲良しになったの?」 弥生「おばあさん」 「もともと今日彼が一緒に来なかったのは変だと思ったの。私がここに住んでいる間、あなたたちは一人で来たことが一度もないわ」 それを聞いて、弥生は目を伏せ、唇をすぼめた。 彼女は自分の演技がうまかったと思っていたが、ばあちゃんの心はとても鋭敏で、何も隠せないことに気づいた。 何でも知っている上で、おばあさんは言葉に出さない。 それはいけないじゃないか。 そう考えて、弥生は言った。 「おばあさん、ただ少し喧嘩しただけなの。今はもう大丈夫だわ」 「若者が喧嘩するのは普通なの。ちゃんと説明をすればいいのよ。
弥生は手を伸ばしかけていたが、瑛介の言葉を聞いてすぐに手を引っ込めた。彼女は眉を寄せ、不機嫌に言った。「自分で出せないの?」「運転中だ。手が離せない」ただスマホを取り出してマナーモードにするだけのことじゃないの、と言いかけたが、また理論試験の知識で言い負かされそうだったので、弥生は口を閉じてシートに寄りかかった。もういい、会社まで我慢すればいい。おそらくもうすぐ着くはずだ。だがその瞬間、瑛介のスマホがまた鳴り響いた。最初は我慢しようと思ったが、また騒々しく鳴り続けるのを聞いてとうとう耐えきれなくなった弥生は、思わず身を乗り出し、彼のズボンのポケットからスマホを取り出した。ところが彼女は画面に表示された名前を見た途端、その場で凍りついた。スマホはまだ鳴り続けていた。瑛介は彼女がスマホのマナーモードの仕方が分からないのだと思い、声をかけた。「サイドのスイッチを逆側に押せば、マナーモードになるはずだ」とやり方を教えた。その言葉に弥生は我に返り、無言で指示通りに操作すると、そのまま黙ってスマホを彼に返した。その後、彼女はシートに戻り、表情を冷たくしたまま窓の外を見つめていた。瑛介は何かおかしいと感じたが、彼女はもともと自分に対して冷淡だったので、特に深くは考えなかった。ようやく会社に到着すると、弥生は無表情のまま瑛介に鍵を返すよう手を差し出した。瑛介は唇を引き結びながら彼女を見つめた。錯覚かもしれないが、弥生の態度がさっきよりさらに悪くなっているように感じた。一体なぜだ?さっき車の中ではそれなりに良い雰囲気だったのに。「僕が何か怒らせるようなことでもしたか?」と瑛介は尋ねた。弥生は無表情のまま言った。「いいえ、君が私を怒らせたことはないわ。送っていただいて感謝しかない。でも、この車は私の車だから、自分でタクシーか運転手を呼んでお帰りになってね」瑛介の眉が険しく寄せられた。彼女の口調があまりにも冷たくなった。何か言おうとしたが、弥生は一歩下がって距離を取ると、「会社でまだやることがたくさんあるから、失礼するわ」と言い放ち、そのまま振り返りもせずに立ち去った。その態度を目にして、瑛介は薄い唇を真一文字に引き締め、先ほどまでの戸惑いの表情から徐々に不機嫌で冷ややかな表情へと変わっていった。ちょ
弥生が言い終えるより先に、瑛介はすでにドアを開けて車内に乗り込んでいた。瑛介がシートベルトを締め終わっても、彼女はその場に立ち尽くしたままだった。弥生が戸惑っている様子を見て、瑛介は密かに楽しみながら、口元をわずかに持ち上げる。そして軽く促した。「乗らないのか?それとも疲れすぎて乗り方を忘れた?」弥生は唇を噛み締め、しぶしぶと車に乗り込んだ。彼女は助手席には座らず、わざと後部座席に座った。完全に瑛介を運転手扱いしていた。座ったあとバックミラー越しに瑛介の表情を観察すると、意外にも彼が自分を運転手扱いしたことに怒っている様子はなかった。まもなくして、出発した。この車は瑛介にとっては確かに安っぽかったが、彼は運転が上手で、運転できさえすれば何でもよかった。弥生は後部座席にもたれかかり、腕を組んだ。彼女は瑛介が何か嫌味を言ってくるだろうと予想していたが、彼は静かに運転するだけで、まるで本当に彼女を送るためだけにいるかのようだった。車内は静まり返っていた。2分ほど経つと、国道に入り、道がなめらかになった。瑛介はバックミラー越しに彼女をちらりと見て言った。「疲れているなら少し眠って」弥生は唇を引き結び、そっぽを向いて彼の視線を避け、返事もしなかった。会社まであと20分ほどかかる。彼女は本当に疲れていた。寝ようかな?いや、彼が運転している時に寝るなんて、まるで彼を信頼しているように見えるだろう。それならやはり会社に戻ってから休んだほうがいい。企画書も仕上がったし、午後は特に仕事もないから、後でゆっくり休めばいい。そう思ったが、車の運転があまりにも安定していて、先ほどまで精神を集中させていたこともあり、弥生は徐々に眠りに引き込まれていった。そしてついに、シートに寄りかかったまま無意識に寝入ってしまった。穏やかな寝息を聞き取った瑛介はバックミラーで後ろをちらりと見て、彼女が眠ったことを確認すると、密かに速度を落とした。そして前方の道を見て少し考え、さりげなく方向を変え、わざと遠回りをして進んだ。弥生は携帯の着信音で目が覚めた。目が覚めると反射的に時間を確認した。彼女はなんと20分以上も寝てしまっていた。窓の外を見ると、まだ車は道路上を走っていた。まだ到着していないのか?前方の
「じゃあ、企画書はどうするの?」「合格だ」と瑛介が告げた。「合格?それって、この案で大丈夫ってこと?」「うん」それならば、彼がさっき細かい点ばかり指摘していたのは、実は全体を確認した後にあえて細かい問題を挙げただけだったのだろうか。そう考えると、なんだかそれほど嫌でもない気がした。「じゃあ、私はこれで......」弥生が言い終わる前に、瑛介は車のキーを掴んで立ち上がった。「送っていく」弥生はとっさに拒絶した。「大丈夫。自分で運転してきたから、自分で帰るわ」そもそも彼女は企画書を届けに来ただけであり、彼と何か進展させるつもりなど一切ないのだ。彼に送られるのは望んでいない。そう思いながら、弥生は素早くバッグを掴んで外へ歩き出した。だが数歩も歩かないうちに手首を瑛介に掴まれた。「運転免許の学科試験はカンニングでもしたのか?」「は?」「そうでなければ、疲労運転はだめだと知らないはずないだろう?」「少しあくびをしただけなのに、それを疲労運転って言うの?」しかし瑛介は直ちに反論した。「疲れてなければあくびなどするか?いいから早く行こう」「さっきはあくびをしたけど、今は別に......」言い終える前に、弥生は再びあくびを噛み殺すことができなかった。瑛介は嘲るように笑った。「本当に疲れてない?」これでもう彼女には反論の余地がなくなってしまった。それでも弥生は瑛介に送ってほしくなかったため、やや遠回しに言った。「わかったわ。運転しなければいいんでしょ?代行サービスを頼むわよ」そう言ってスマホを取り出して代行を呼ぼうとしたが、彼女の手を瑛介が押さえた。顔を上げると、唐突に彼の深く黒い瞳と視線が絡み合った。「君はそこまで僕を避けたいのか?」弥生は一瞬固まったが、すぐに視線を逸らして言った。「いいえ、私たちは仕事のパートナーだから、避ける理由なんてないわ」「本当に?避けていないなら、仕事のパートナーが君を送るぐらい何の問題もないはずだろう。それとも君は何か隠したいことでもあるのか?」最後の言葉は、瑛介がわざと彼女を挑発するために言ったものだった。弥生の目に、わずかな動揺が走った。ただ彼との関係を深めたくないだけで、別に避けているわけではない......だが瑛介がそう考える
瑛介はざっと目を通し、何か問題を見つけて彼女を引き止めようと考えていた。しかし弥生は飲み込みが早く、そのうえ作成中ずっと彼が横で見ていたため、今さら探してもなかなか問題を見つけられなかった。最後の最後でようやく、瑛介は誤字をひとつ見つけ出した。「ここ、間違ってるよ」それを聞いた弥生は特に疑問を持たず、すぐに身を寄せて画面をのぞき込んだ。「どこ?」瑛介がマウスを動かすと、弥生の視線もそれを追った。彼がマウスで指した文字を見て、彼女は最初ぽかんとして、何のことか分からず尋ねた。「ここ、問題があるの?」「ここで『末』じゃなくて、『未』だろう」と瑛介が淡々と言った。それを聞いて、ようやく弥生は『未来』の『未』の字を『末』と書き間違えていたことに気づいた。弥生は瑛介をちらりと見た。こんな膨大な文章の中から、よくもこんな些細なミスを見つけられたものだ。「あ、ごめんなさい」彼女は仕方なくパソコンを持ち帰り、字を直してから再び戻ってきた。「他に問題ある?」瑛介はまた一から目を通し直して、その間、弥生はあまりに退屈であくびが出そうになったが、自分の会社のためだと思い、手で口元を覆って必死に我慢した。どのくらい待ったか分からない頃、瑛介は再び問題を見つけ出した。「ここ、文章がおかしいね」彼女は自分の耳を疑ったが、瑛介の厳しい仕事ぶりを考えれば当然のことだとも思った。文章に問題があるのは自分のミスなのだから、文句を言える立場ではない。弥生は仕方なく文章を修正した。数分後。「この一文もおかしい」と瑛介はまた指摘されて、弥生はそのところを修正した。さらに数分後。「ここは改行するべきだ。文章が密集しすぎていて読みづらいじゃないか」弥生は下唇を噛んで、必死に耐えた。こんな取るに足りない修正が数回続いた後、瑛介が五回目のチェックに入りかけたところで、弥生はついに我慢できずに口を開いた。「細かいところ以外は大丈夫?」細かな指摘ばかりして、彼は一体何を考えているのだろう?弥生の言葉を聞き、瑛介は手を止め、横目で彼女を見た。「君はこれらが重要じゃないと思っているのか?」「そういう意味じゃなくて、ただ私は......」「なんだ?」冷ややかな視線を向けられ、弥生は唇を軽く噛んで黙り込み
弥生がようやく食事をする気になったのを見て、健司は急いで用意していた昼食を運んできた。料理は高級レストランの出前なので、盛り付けも美しく、蓋を開けると、香りがぐっと溢れ出した。弥生がご飯を食べる時、ふと何かを思い出して瑛介の食器をちらりと見ると、彼の皿にも同じようにご飯が盛られていた。彼女はわずかに眉をひそめ、思わず口にした。「君、もうご飯食べていいの?胃を休ませなくていいの?」その瞬間、周囲が静まり返った。瑛介が視線を向ける前に、弥生は慌てて説明を加えた。「仕事上のパートナーだから、ちょっと気になっただけ」説明などしなければよかったものを、言い訳したせいで余計に怪しくなった。果たして彼女の言い訳を聞いた瑛介は、薄い唇をかすかに持ち上げて微笑んだ。「そうか?気遣ってくれて、ありがとう」先ほど彼女が見せた嫌がる態度から生じていた嫌な感情は、この一言ですっかり消えてしまった。瑛介の頭には、ただ一つの考えしか浮かばなかった。彼女が自分を気にかけているのではないか?態度は確かにぎこちなかったが、ほんの少しの気遣いでも瑛介を喜ばせるには十分だった。弥生は眉を寄せた。まさか瑛介がここまで図々しいとは、想像もしていなかった。彼女が黙り込むと、瑛介は自ら話を切り出した。「ご飯って胃に良くないのか?三食きちんと食べれば問題ないと思ってたんだが」彼の質問に弥生は再び眉を寄せた。「もちろん規律的に食べればそれでいい。でも君は前に胃出血を起こしたでしょ?まだ胃が弱っている状態だから、回復するまではご飯みたいなものは控えたほうがいいのよ」「じゃあ、何を食べればいい?」瑛介は素直に教えを請うような態度で聞いた。「流動食とか、消化しやすいもの、例えば、野菜や果物とか。でも少量ずつ何回かに分けて食べるのが一番よ」以前、弥生が海外に行ったばかりの頃、父が胃病になったことがあった。その時の食事管理は弥生が担当していたため、前回瑛介が胃出血で入院した時も、彼女はすぐに適した食べ物を作って持っていったのだ。瑛介は何かを考え、少し間を置いてから言った。「君が前に病院に持ってきてくれたような感じ?」突然前回のことを持ち出され、瑛介が何を企んでいるのか分からなかったが、弥生は一応頷いた。「そう、大体あんな感じ
「そんな目で僕を見るなよ。企画書は作るのか、作らないのか?」瑛介が謝ったからだろうか。弥生も心のモヤモヤが少し晴れていた。もともと企画書は作るつもりだったのだ。とはいえ、彼女もプライドが高いので、瑛介にチクリと嫌味を言ってから再び椅子に腰掛けた。それからの仕事の時間、瑛介はもう以前のように嫌味を言うこともなく、真面目に彼女と企画書について議論した。彼女は長く海外にいたため、日本の状況に詳しくなかったこともあり、瑛介の的確なアドバイスや誘導のおかげで、弥生は多くの収穫を得た。やがて弥生は、自分の隣に座っているこの男性がかつての夫であることも忘れ、完全に仕事に没頭してしまい、瑛介に対する話し方も完全に普通の態度となっていた。本当にただのビジネスパートナーであるかのように。それに気づいた瑛介の表情は、再び沈み始めた。弥生が集中して仕事に取り組んでいると、健司がドアをノックして食事の時間だと知らせに来た。だが弥生はまだ企画書をまとめ終えておらず、彼の言葉を無視し、真剣にノートパソコンを見つめ続けていた。健司は仕方なく瑛介に目配せした。瑛介は薄い唇を軽く引き結び、声をかけた。「食事の時間になったよ」「うん」弥生は返事をしたが、画面から顔を上げようともしなかった。彼女のこの反応を見て、瑛介は、彼女は適当に返事をしただけだろうと思った。案の定、数分経っても弥生は自分の席から動こうとせず、頭さえも一度も上げなかった。瑛介は眉を寄せ、再度促した。「弥生」すると弥生はまた無意識に、「もうちょっと待って」と言った。彼は弥生のノートパソコンの横のテーブルを指でトントンと叩きながら言った。「先に食事をして、それから仕事だ」何度も邪魔されて、弥生は集中できなくなり、不機嫌そうに眉をひそめて瑛介を見た。「もうすぐ終わるから。先に食べればいいじゃない」そもそも、彼と一緒に食事を取るつもりなどなかったのだ。瑛介は唇を引き結んだまま、何も言わなかった。見かねた健司が急いで前に出て、場をとりなした。「霧島さん、お仕事が大切なのはもちろんですが、ちゃんと時間通りに食事をとらないとダメですよ。社長も、以前仕事に打ち込みすぎて食事が不規則になり、胃出血になったことがあるんですよ」しかし弥生は、その言葉にまったく
パスワードは自分の誕生日?一体どういう意味だろう。このパソコンはとても新しく見えるから、たぶん買って間もないはずだ。それなのに彼は、自分の誕生日をパスワードに設定したの?彼女を傷つけ、自ら離婚を切り出し、さらには子供まで諦めさせたあげく、それでも彼女の誕生日をパスワードに使うなんて。弥生は唇を軽く噛み、無表情で数字を入力した。すると、本当にパソコンが開いてしまい、彼女は突然、自分でもおかしいほど笑えてきた。何のつもり?弥生は恨めしく新しいファイルを開き、入力し始めた。考えるな、騙されるな。彼が誕生日をパスワードにしたところで、それが一体何になるというのだ。過去はもう過去だ。今は未来を見つめ、目の前の仕事を片付けることが大事だ。彼が企画書を気に入らないなら、その意見を聞くだけだ。瑛介は、パスワードの件で彼女が少しも動揺しないのを見て、胸の奥がつかえるような気持ちになった。しかしどうしようもない、彼女を傷つけたのは自分自身なのだから。今日中に企画書をまとめる必要があると覚悟した。瑛介は指先で軽く机を叩き、表情も動作もどこか無関心なふりを装っていた。「君が立ち上げたのは広告会社だろう?だがさっきの企画書は、まるで個人の夢物語みたいだった。あまりにも理想主義的すぎるじゃない。小さな会社が短期間で市場に立つには、チャンスを掴むやり方を覚えることだ」話しながら、彼の指先は先ほどの企画書の一行を指し、容赦なく批判した。「あまりにも保守的だ。こんなものは投げたところで水の泡だ。海外で5年、君が学んだのはこれだけか?それとも彼が君に教えたのがこれだけだったのか?結局、君が選んだ相手も大したことなかったようだな」最後の一言には、あまりにも多くの個人的な感情がこもっていた。それまで真剣に耳を傾けていた弥生の表情に変化が表れた。眉をひそめ、不快そうに彼を見つめた。「君は仕事の話がしたいの?それともプライベートの話がしたいの?」瑛介は暗い瞳で彼女を見つめ返した。「仕事を話でも、プライベートの話でも、どちらでも良いだろう?」「仕事をしたいならきちんと仕事をしよう。プライベートの話を話したいなら、それも結構。その場合、企画書は持ち帰って自分の会社で書くから」そう言い終えると同時に、瑛介が鼻で笑った。「弥生、君の能
瑛介はその場に立ち、最初は無表情だったが、何かを見た瞬間、眉をひそめた。「この企画書、誰が作った?」弥生は彼の口調を聞き、視線を上げた。「どうかしたの?」「君が作ったのか?」弥生は頷いた。「そうだけど、何か問題が?」彼女がそう言うや否や、瑛介は冷笑した。「五年も経って、学んだことはこれだけか?」その言葉に、弥生の顔色が急に白くなった。「どういう意味?どこに問題があるの?」「この案通りに進めたら、会社なんてすぐ潰れるぞ。時間の無駄だ」瑛介の口から出る言葉に、弥生は苛立ちを感じた。しかし、彼のことをよく知っている。彼は仕事に関しては常に厳格で、いい加減なことは決して言わない。彼がこう言うということは、本当に問題があるのだろう。内心で怒りを抑えながら、弥生はぎこちなく微笑んだ。「それなら、君の考えを聞かせて」瑛介は彼女を一瞥し、何も言わずに企画書を持ってデスクへ向かい、それを無造作に投げ置いた。弥生は唇を引き結び、彼の後を追った。「ちょっと待って、どこが問題なの?修正するわ」瑛介は唇を噛みしめて言った。「この案はもうダメだ。修正する価値もない」彼女の作った企画書はそこまでひどいのか?修正すらできないほど?弥生は、瑛介が個人的な感情でこれを言っているのではないかと疑い始めた。彼女は企画書を手に取ってじっくりと見つめた後、尋ねた。「本当にこの案を破棄するつもり?」瑛介は薄く笑った。「君が使いたいなら、僕は構わない。ただし、その損失を君が責任を持って負担できるならな」弥生はしばし沈黙した後、口を開いた。「分かったわ。もしこの案が気に入らないなら、新しいものを作って持ってくる」そう言い残し、弥生は踵を返して部屋を出ようとした。「帰っていいと言ったか?」弥生は戸惑い、振り返った。瑛介は眉をひそめていた。「行ったり来たりして、君はどれだけの時間を無駄にするつもりだ?それとも、僕にそんな時間があるとでも思っているのか?」「時間の無駄ってこと?そもそも、ここに来いと言ったのは君でしょう?」「来いとは言ったが、帰れとは言ってない」彼は顎を軽く上げ、室内の一角を示した。「ここで作成したらいい」さっきまでは瑛介の指摘は的確だと感じて
弥生は企画書を整理した後、瑛介に電話をかけた。「君のメールアドレスを教えてくれる?企画書を送るから」「会社まで持って来い」弥生は一瞬戸惑った。すると、相手はさらに続けた。「住所は健司から送らせる」「メールで送るのではダメなの?」「弥生、僕が投資した金は小さな額じゃないし、遊びで渡したわけでもない。ちゃんと真剣に対応しろ」電話が切れた後、弥生は深く息を吸い、感情を押し殺した。そして、プリンターから企画書を印刷し、準備を整えた。ちょうどその頃、健司から宮崎グループの早川支社の住所が送られてきた。弥生は、企画書を持って、外出した。健司が送った住所を頼りに、すぐにビルの前に到着した。さすがは宮崎グループ。早川支社であっても、建物は圧倒的な威圧感を放っていた。瑛介が自分の小さな会社に投資を決めた瞬間、大勢の人材が一気に集まってきた理由がよくわかる。弥生は、ファイルを手に持ち、ビルの中へと足を踏み入れた。たとえ支社とはいえ、簡単に入ることができるわけではない。彼女は慎重に考えた後、「瑛介に会いに来た」とは言わず、フロントのスタッフにこう伝えた。「こんにちは、高山さんと約束していますが」狙いは的中した。「高山」の名前を聞いたフロント係は、まったく警戒する様子もなく、彼女の服装や立ち振る舞いを見て、すぐに確認の電話をかけた。「お客様、5番エレベーターで16階まで、どうぞこちらへ」「ありがとうございます」エレベーターに乗りながら、弥生の思考は、遠くへと飛んでいた。これからの生活は、少しは穏やかになると思っていたのに。なのに、仕事のせいでまた彼と会うことになるなんて。仕事を理由にされたら、彼を拒絶することはできない。そんなことを考えている間、弥生は眉間を指で軽く押さえ、わずかにため息をついた。エレベーターの扉が開くと、そこにはすでに健司が待っていた。「霧島さん、こんにちは」弥生は、軽く頷き、エレベーターを降りた。「社長がオフィスでお待ちです」彼の後をついて歩きながら、弥生は周囲のオフィスの環境を、何気なく観察した。南市の本社に比べれば、こちらのオフィスは若干劣っているように見える。おそらく、この支社のオフィスは最近整備されたばかりなのだろう。健司が